母さんとアルフォンスと、父さん。四人で近くの丘に出かけた。
左手の先にはアル、右手の先には父さん。見上げた父さんは笑っていた。母さんは、サンドイッチのつまったバスケットを抱えている。
丈の短い雑草で覆われた小道を上れば、目の前に広がったきらめく山陵。アルと二人歓声を上げて、芝生の上をまろぶように駆け登っていった。
むせ返るような緑の匂いの中で聞こえる気の早い蝉の声や、高い空を飛ぶ鳥。母さんが止めるのもろくに聞かずに、転げ回って服を汚した。
父さんは笑っていた。
母さんも、笑っていた。
それが当たり前だった。
もう、思い出せない。
当たり前過ぎた。
何年経ってもこの幸せが続くんだと、悲しくも無邪気に、俺はそう信じていたんだ。
レゾンデトル 1
「――………ク……リック、エルリック!」
「いてっ」
すこん、と後頭部に衝撃。はっと目を覚ました。なんだなんだ。
寝ぼけ眼できょろきょろとあたりを見回すと、閻魔帳を持ったマスタングが隣に立っていることに気がついた。前の席のラッセルは俺の方を振り向いてにやにやしている。どうやら今は朝のホームルームの真っ最中のようだ。
とりあえず、挨拶しておくことにした。
「…おはよー、ございます」
「おはよう。良い夢は見られたかね?」
黒髪の教師は厭味ったらしくにっこり笑う。
なんだろう。何か、夢を見ていたと思うのだが、どうしても思い出すことができない。幸せな夢だった気がするのだけれど手を伸ばす前に消えてしまった。
適当に返事をしてもう一度夢の世界へと誘われようと目を閉じた俺の、今度は顎を下から閻魔帳で叩いてマスタングはまたしても俺の邪魔をした。
「……何」
「あのな、朝のホームルームから寝る奴があるか」
マスタングが呆れた顔をしてみせる。俺ははん、と鼻で笑い、いまだに顎を持ち上げている紙の束を払いのけた。
「俺が寝ててもホームルームは進むだろ」
「いや?君が寝てると、後ろの女の子が困るのだがね」
え?
マスタングの言葉に後ろを振り向くと、急に引き合いに出されておろおろしている女の子が目に入った。何が何だか分からなくて前のラッセルの方に振り向くと、ラッセルは手にしたプリントの束を指さしてにやにやしている。
「……?」
「後ろに回してやれ」
「あっ」
ようやく意味を理解して慌ててラッセルからプリントを奪い取り、後ろに回してやる。ごめん、と小さく謝ると、女の子は顔をほんのり赤く染めてぶんぶんと首を振った。
「さて、そういうわけだからちゃんと起きているように」
「………」
「返事」
「…わかったよ!はいはい!」
まわりからくすくすと忍び笑いが聞こえてくる。
半ばやけくそな叫びにマスタングは満足気に笑い、ようやく教壇へと戻っていった。
「えー、一枚目のプリントに書いてある通り、近い内に三者面談を行う。その時の資料にもするので二枚目にある進路希望の紙に第三希望まで書いて、来週の月曜までに提出するように。今日は以上だ」
きりーつ、れーい、と気の抜けるような間延びした号令がかかる。まわりに合わせて適当に礼をすると、マスタングは閻魔帳と出席簿をかかえて教室から出ていった。
「ぱこんっ、『あのな、ホームルームから寝る奴があるか』」
「……黙っとけラッセル」
ラッセルは後ろに、つまり俺の方に振り向いて喜々としてあのむかつく野郎の真似をしている。声色まで使ってはいるが、正直、似てない。眉間に皺を寄せて睨むとようやくラッセルは似てない物真似をやめて頬杖をついた。
「まああれはエドが悪かったな」
「そうかあ?つうかお前が俺を飛ばして後ろに回しとけば気付かれずに済んだんだっつの」
「いや、その前から気付いてたぞ。ずっとお前の方見てたし」
「………」
昨日といいさっきといい何なんだあいつ。
眉間にまた一本ほど皺を増やした俺を見て、ラッセルが笑った。
「お前、マスタングに目ぇつけられてるもんな」
何がそんなに嬉しいんだか、にしし、と怪しく笑う。俺の方は非常に面白くない。
ふん、と荒く鼻息を吐くと、ラッセルは怪しい笑みを引っ込めて、「そういえば」とさっき配られたばかりのプリントを机から引っ張り出した。
「お前、進路どうする?」
「進路?まだ決めてねえ」
「げっ、まじかよ。もうすぐ三年だぞ俺ら」
「ま、だ、二年だよ。適当に書いて提出しとくし」
「あ、そ。いいよなあエドは頭いいからどこ書いてもオッケーだろ」
「羨ましいのかねトリンガム君」
「羨ましいですともエルリック氏」
かく言うラッセルだってこの進学校の中でかなり頭が良い方なのだが、まあ当然、俺様の方が上なのだよ。いいなあいいなあを繰り返すラッセルを無視して自分の分のプリントを広げると、ひょいと手を伸ばしラッセルの机から筆記用具を拝借した。
「あっ、泥棒ですか」
「うっせえ貸せ。筆記用具持ってきてねんだよ」
「学校来た意味無いな」
「ふふん」
ホチキスで止められたプリントの一枚目が面談のお知らせで、二枚目が進路希望調査書。一枚目をめくって調査書に名前を書き込んだ。
「何て書くんだよ?」
「第一志望はニート」
ラッセルが噴き出した。俺もにやりと口を歪める。
「第二志望は……そうだな、パチンカー」
「第三志望は?」
「ヒモ」
「最高だな!」
「だろ?」
なんて完璧な未来設計。自分の志望先にひとしきり頷くと、がりがりとシャーペンを藁半紙の上で滑らせる。
第一志望の「ニー」まで書いたところでラッセルが待ったをかけた。
「ちょっと待った」
「何だよ?」
「本当にニートと書くな馬鹿!」
「だって俺まじでニート志望だもん」
別に本当にそんなもんを志望しているわけはないのだが、俺は大学名など書きたくても書けないのである。なぜならば。
「俺大学行けねえし」
「なんで」
「……家庭の事情ってやつ?」
「はあ」
そう。家庭の事情ってやつなのだ。しばしば(俺の大嫌いな)同情の対象となるあの家庭の事情、とやらがあるのです。
なので俺は大学行けません。行く気も無いし行く理由も無いのでどうでも良いことだ。
「勿体ないな」
「まあ、どうでも良いし。そんなわけで俺の第一志望はニートです」
「マスタング怒るなこりゃ」
「……なんでそこであいつが出てくんだよ」
マスタングの名が出てきた瞬間に機嫌が急降下した俺を見て、ラッセルはやれやれといった表情をしてみせた。
「だってお前マスタングのお気に入りだろ。俺がニートって書いても呆れられるだけだろうけど、お前が書いたら怒るぜきっと」
「嬉しくねーそんな愛情」
ほんと嬉しくもなんともねえぜ。
ホテル街の近くで、繁華街で、あの雑踏で、目ざとく俺を見つけては欝陶しい説教を垂らす教師を嬉しく思うわけがない。どうせあと一年とちょっとしたら俺が卒業して、それからはすぐにお互い顔も忘れるであろう間柄なのに、それでも俺に付きまとうあいつのあの神経が分からない。ストーカーか?
「うおっ、きも!」
「何がだよ」
ため息をついてそう言うラッセルには答えずに、書きかけていた進路希望調査書の空欄をニートパチンカーヒモの順で埋めていく。
全て書き終わると大袈裟に額をぬぐい、シャーペンを元の位置に戻した。
「あーあ。知らねえぞ」
「大丈夫大丈夫」
プリントを机の中にしまうと大きな欠伸をひとつして寝る体制に入った。ラッセルがまだ何か言っているが、気にしない。校内一位の俺様は授業なんぞを聞く必要は無いのだ!
そんなわけで、おやすみなさい。
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