レゾンデトル 6
いち、にい、さんまい。本日の収穫、三万也。ちょっと少ないけど、まあいいや。
俺は自室のベッドに寝転がり、今日手に入れた万札三枚を財布に突っ込んだ。そのぞんざいさに先客の諭吉達が文句を言うかのようにくしゃり、と音を立てたが、無視して折りたたむ。
そう言えば今日はマスタングに会わなかった。いや、そりゃ俺のクラスの担任であるので学校では会ったけど、繁華街であいつの姿を見かけることは無かった。まあ、毎夜毎夜ホテル近くを巡回してるわけでもないか。巡回って言うか、勝手に俺の邪魔をしにくるだけなんだけど。ちょっと拍子抜けした気分だ。とにかく、ラッキー。
ベッドヘッドに置いてある時計をちらりと見ると、そろそろ二十三時になろうかという時刻だった。あ、やばい。さっさと風呂に入らないとまたねちねちと文句を言われそうだ。
下着と寝巻をひっつかんで一階に降りると、義父母がリビングでテレビを観ていた。どうやら二人とももう風呂には入ったらしい。寝巻に着替えてしまっている。俺はこっそりと安堵の溜息を吐いて、二人に気付かれないようにそろそろと風呂場へ向かった。
(ホテルで風呂入ってくれば良かったかな)
今更だけど。
シャワーコックを捻ると、温かい湯が俺の頭上から降ってくる。目を瞑ってその雨を受けた。湯は俺の肌を滑り、びちゃびちゃと派手な音を立てて床に落ちていく。下を向いて目を開けると、落ちた湯がぐるぐると渦を描いて、絶え間なく排水溝に消えていくのが見えた。
「……」
流れていく湯はどこまでも透明だ。この湯が俺の心の中まで洗い流すことができたなら、きっと真っ黒に汚れた汚水がこの穴に流れていくのだろう。シャワーをいくら浴びたって内面まで洗うことなんてできっこないのに、そんな突飛な妄想をしてしまう。馬鹿らしくなってシャワーを止めた。
湯気で曇った鏡をきゅ、とこすると、濡れた髪の隙間からこちらを覗く顔と目が合った。俺だ。金色の髪は首のあたりに貼り付き、ぽたぽたと水を垂らしている。鬱陶しいその髪をかきあげると、今朝鏡を見た時には無かったはずの違和感を感じた。赤黒い痕がぽつん、と鎖骨のすぐそばに居座っている。
おいおい、痕つけるなって言っただろうが、あのくそじじい。
「……きたねえな」
急に苛立って、止めていたシャワーのコックを思い切り捻り鏡の向こうの自分に湯をぶちまけた。腹の奥で何か熱くて気持ち悪いものがうねっているような感覚を覚えるけれど、どうしようもなくて歯痒い。
湯をいくら浴びようとも、タオルで体をどれほど擦ろうとも、たとえ洗濯機に自分の身を突っ込んでみたって、俺は薄汚く汚れたままなんだろう。
「そういえばさ」
サラダについてきたプラスチックのフォークの切っ先を俺に向けて、ラッセルが口を開いた。俺はラーメンを啜る手と口を止めて、ラッセルの顔をちろりと見上げた。
「最近マスタング来ないな」
どうしたんだろうな?、とフォークの切っ先が上下に揺れる。ラッセルの表情はいたって真剣だ。
どうでもいいからそのドレッシングとレタスの欠片がくっついた使いさしのフォークを俺の目の前に持ってくるな。
「さあ、忙しいんじゃねえの……別にどうでもいいだろ。逆に清々すらあ」
ずず、と麺を啜る口を再開させてぞんざいに答えた。確かにこの間の屋上の一件あたりから、マスタングが俺にまとわりついてくることが無くなった。ホテルに行っても会わないし、食堂にやってくることも無い。最近は曇り続きで屋上へは行ってないので、あいつが屋上に現れているのかどうか、それは分からない。
今日の俺はプリンを買えなかったので少し機嫌が悪い。ので、あいつの話なんて聞きたくもない。あいつのくれるプリンが無いのは、ちょっと、残念だけど。
「押して駄目なら引いてみろ。基本ですな」
懲りずにラッセルはフォークをこちらに向けてくる。やめろって言ってんだろうが行儀が悪い。それより、ええと、なんだって?
「は?」
「だから、押して駄目なら……」
「それは分かってんだよ!誰が、押して、誰が引いてるんだって?」
ひく、と顔が引き攣る。返答によっては目の前のフォークを真っ二つに折るぞ。
「そりゃ、マスタングが押して引いてるんだろ」
ご愁傷様フォークよ。お前の死出の衣はドレッシングとレタスの欠片です。
押して駄目なら、引いてみろ。シンプルかつ物事の核心をよくついた、良いお言葉ですな。ティーン向けの雑誌なんか開いてみたら、恋愛指南のページに必ず一回は入っていそうな言葉だ。人間、自分に興味を持っている人が突然いなくなると、急にそいつのことが気になるようにできているらしい。自分がそいつに今まで興味を持っていなかったとしても、だ。人間っていうのは随分と自分勝手なもんだな。かくいう俺もホモ・サピエンス、つまり人間でありますので、その金言は当て嵌まるのかもしれないけど。
「ねえな、ねえ。百パーねえ。あいつが俺に押して引いてどうすんだよ」
マスタングが俺にそんなことして何の得があるっていうんだ。男だぞ。繁華街で俺に寄ってくるようなおっさんどもならともかく。そんなおっさん達とあいつが同類だなんて、ちょっと想像がつかない。
「でもまあそんなつもりが無かったにしても、結果的にはそうなってるだろ。それにエド、最近なんかイライラっていうか落ち着かないっていうか……そんな感じだし」
「……俺のどこがイライラして落ち着いてないんだよ」
「そういうとこ」
意味がわからん。底に沈んでいる麺を箸でさらいつつラッセルを睨むと、ラッセルはおーこわ、とおどけた様子で肩を竦めた。
別にマスタングが近寄ってこなくなったからといって俺がイライラする理由は無いし、むしろ邪魔されないので清々するくらいだ。俺が落ち着いてないっていうのは多分、今までマスタングが何かとまとわりついてきていたのが急にいなくなったので勝手がわからずにいるんだろう。喩えはアレだけど、潰してしまったニキビとぽっかり開いてしまった毛穴みたいに。でも、それもその内慣れる。人間何でも慣れだ。つくづくそう思う。現に俺はあの家族の中で生活することに慣れたし、誰とも分からない男の下で喘ぐことにも慣れた。
「人間って、器用なんだか不器用なんだか、分かりませんね」
箸をがじがじと噛みつつそう呟く。俺もラッセルのことを行儀が悪いだなんて馬鹿にできませんな。
案の定、ラッセルは「はあ?」と良く分かっていない顔をした。
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