レゾンデトル 7
かちん、と軽い音を立てて、飾り気の無いシンプルな長針の先がほんの少し下に下がった。
六時十八分。ああ、こんな時間か。外はもう真っ暗だ。そう言えばもうすぐ冬至だっけか。
ぼんやりと時計を見上げていた目を正面に戻すと、マスタングがこっちをじっと見ていた。思わず「ああ」、と声を上げてしまった。そうだった。今はこの教室で、三者面談をしているんだった。正確には、二者面談。うちの親は来てないので、ね。マスタングと俺は六時頃から小さな机を挟んで、こうやってぼんやりと過ごしているのだった。
(こいつとこうやって向かい合ってるの、なんか久しぶりだ)
何日振りだ? 頭の中で指を折って数える。七、八、九? 十……? まあいいや。とりあえず、最後にマスタングとまともに会話してから一週間以上は経っていた。
久しぶりにこのムカつく端整な顔を注視した。
「聞いてるのか?」
マスタングが口を開く。聞いてるよ。
「聞いてる」
「じゃあ、さっきの質問への答えは?」
「今考えてる」
ぞんざいにそう言って手を振ると、マスタングの眉間に皺が一本増えた。
卒業後の進路をどうするか。そんなの今から考えてどうするんだ。一年以上先のことを気にしながら日々過ごすなんて、なんとも面倒臭い人生だ。なんて全国の受験生を敵に回すようなことを思ってみるけれど、本当は何にも思いつかないだけだ。どうせ義父母は高校を卒業したら俺の面倒を見る気なんてさらさら無いだろうし、俺もあの家を出られたらそれで良い。その先のことなんて何も考え付かない。進学する金は無いし、就職したい会社も無い。
アパートの部屋って、どうやって借りるのかな。保証人とか要るのかな。俺が気になるのはそんなことぐらいだ。
ところがマスタングにとってはそうもいかないようで、深い溜息が俺の目の前で霧散した。
「どうしたものかな……」
すみませんね先生、手間かけさせる生徒で。でもそれもあと一年ちょっとだから、我慢してよ。そしたら俺は卒業してどっか行って、俺達は赤の他人になるんだからさ。
「どうもこうも、放っておいてくれたらいいよ」
「そうもいかないからこうやって悩んでいるんだ」
ぎ、と椅子の背凭れが鳴った。今まで頬杖をついていたマスタングが腕を放り出して、自分の腰掛けている古い椅子の背凭れに背中を預けた音だ。
「君は私を悩ませることにおいては天才的だな」
「そりゃどーも」
お褒めにあずかり光栄です。へら、と笑ってそう言ってやると、予想通り「褒めてるわけじゃないんだがな」、と文句が飛んでくる。
「進学するつもりは無いのかい?」
「さあ」
「勉強することは嫌い?」
「別に」
どうしたらいいんだろうな。こうやって何度も同じことを問われても困る。それより、俺の中でも答えが出ていないし出すつもりも無いのにこうして時間を無駄にするのは不毛だとは思わないか先生。
俺はそう思うんだけど、マスタングはそれを不毛だとは思わないようで、相も変わらずこちらをじっと見つめて俺が何か話し出すのを待っている。ふと時計を見上げると、長針が7の文字より少し左を指していた。さっき時計を見た時からもうこんなに時間が経っていたらしい。
「……じゃあ、就職にしといてよ」
面倒になって適当にそう吐き捨てた。俺の答えを聞いたマスタングは再び頬杖をついて、就職ね、と呟きながら何やら手元の書類に書き込んだ。
「どこへ就職希望?」
「まだ考えてない」
目の前の男はやっぱりね、と肩を竦めた。就職先をまだ考えてないんじゃなくて、正確に言うと、何も考えてない、だ。マスタングもそれは分かっているんだろうけどもう何も言わなかった。
「遅くまで引きとめて悪かったね。もう帰っていい」
大して悪いとも思ってなさそうな声でマスタングはそう言った。それを受けて、俺はこれ幸いと机に引っ掛けていた鞄とマフラーを手に取って、そそくさと教室を辞すことにした。扉に手を掛けたところで、寄り道せずに帰るようにな、と背中に声が投げかけられた。
(『寄り道』、ね)
冷えた廊下に出て、扉を閉めた。するなと言われて、しないわけにはいきませんな。なんて、そう思ったわけじゃないけど今日はもう予定は無いので、なんとはなしに繁華街へ向かうことに決めた。
白いバスローブを羽織りながらシャワールームから出ると、ベッドに腰掛けた男が「遅かったね」、と声をかけてきた。別に、そんなに長くシャワーを浴びていたわけじゃないと思うんだけどな。せいぜい十五分くらいか、それくらいだったと思うけど。でもそんなのは一刻も早くヤりたがってるこの男には関係無いようで、ギラギラした目で舐めるように俺を見つめてくる。
どんだけ溜まってんだよ。そう内心で男を嘲り笑いながら、見せつけるように殊更ゆっくりとベッドに近づいた。
ぐい、と強い力で腕を引かれてシーツの上に転がされた。そのまま性急な手付きでバスローブの前を開かれる。着た意味ねえな。あまりにあっさり脱がされたので思わず笑えてしまった。いっそ素っ裸のままで出て来れば良かっただろうかとそこまで考えて、そう言えば以前そうやった時に相手の男にがっかりされたことを思い出した。身に纏っているものを脱がす、というただそれだけの行為もお楽しみの一つらしい。そいつもなんだかんだでちゃっかり最後までやっていったので、本当にそこまで拘っているのかどうかは分からずじまいだったけど。俺自身は女の子を抱いたことが無いからそこらへんのオトコの心理はまだよく分からなかった。
「痕付けるの禁止。傷がつくようなことも禁止。あと中に出すのも禁止」
身体をまさぐる手を軽くいなしつつ、禁止事項を挙げる。男は面倒臭そうにうん、うん、と分かっているんだか分かっていないんだかよく分からない返事を寄越してきた。守る気があるのかどうか知らないが、もう一度確認するのも億劫だったのでそのままにしておくことにした。破られたら料金上乗せしたらいいや。
収まりの良い位置を探して頭の位置をずらすと、濡れた髪の水分を吸った枕が俺の頬をひんやりと冷やした。何やってんだろ自分、といつも考えないわけじゃないけど、でももうそんなの今更だ。男は俺の平べったい胸を無我夢中といった様子で舐め回しているし、俺もそれから逃げ出すつもりは無い。もう本当に、今更、だ。
まだ勃ち上がってもいない中心を握られて、いつも通り俺は上擦った声を上げた。
「まいど」
ホテルの出入り口で男にそう言った。俺の右手には万札が四枚。そこそこ、かな。
ベージュのコートを着込んだ男はすぐに繁華街の人込みに紛れて見えなくなった。今日の客は痕も付けなかったし中出しもしなかった、おまけに報酬もそこそこ良くてなかなかの優良客だった。
ひゅう、と夜の冷たい風が吹いてきて、ろくにドライヤーもかけていない生乾きの髪が頬に当たって熱を奪う。マフラーを顔まで引き上げた時、こんなところで聞くなんて思っていなかった声が聞こえてきた。
「……エドワード?」
びくりと背筋が強張る。なんで、どうして? いや、こいつがこんな所にいるなんて珍しいことじゃないんだろうけど、まさか鉢合わせしてしまうなんて思ってもいなかった。恐る恐る後ろを振り向くと、ああ、やっぱり。
黒いコートに、グレーのスーツ。ブラウンの髪。
義父だった。
「こんなところで何をやっているんだ」
吃驚と嫌悪と、怒りが混ざった声が投げつけられる。何って、一目瞭然だと思うけど。そう思っても実際には声すら出ない。「あ……」という空気混じりの情けない母音がひとつ、ようよう口から転がり出ただけだった。
呆然と突っ立っている俺の顔を見つめていた義父は、やがて右手に視線を向けた。見る見る内に目が吊り上がっていく。あ、やばい。義父が見ているのはさっき男から受け取った四枚の万札だった。慌てて背中に隠したけどもう手遅れで、怒りを隠そうともせずに大股に近づいてきた義父は俺の右腕を捻りあげて薄っぺらいそれらを取りあげた。
「痛……っ」
「おい、これは何だ」
ぎりぎりと強い力で腕を掴まれ、怒気にまみれた声が降ってくる。痛みに涙の滲んできた目で必死に睨みつけても効果は無くて、むしろこいつの怒りに火を注いでしまったらしい。
乾いた音が響くのを、どこか他人事のように聞いていた。数瞬遅れて、左頬がじんわりと熱と痛みを帯びてくる。先程の音はどうやら義父が俺の頬を平手打ちした音だったらしい。衝撃で噛んでしまった口の中に鉄の味が広がり、血混じりの赤い唾を地面に吐き捨てた。
「お前は本当に、生意気で言うことをきかないクソガキだな」
汚い物を見るような目で義父が俺を詰る。俺も負けじと睨み返す。あんたは俺のことばかり汚いだなんて言ってられない。あんただって同じくらい汚れてるよ。
「……あんな奴らから生まれた子どもがこんな馬鹿なガキなのも、当然だな」
その言葉を耳が拾った瞬間、時が止まった。ような、気がした。
「…………るな」
「何だって?」
怒りで頭の奥が酷く熱くなっていく。右腕を掴んでいる手が気持ち悪かった。
「お前なんかがっ、父さんと母さんを侮辱するな!」
叫んで、自由な左腕を振るう。鈍い音をさせて義父の額に拳が当たった。顔を真っ赤にした義父は目を剥いて、もう一度俺の頬に平手打ちを喰らわせた。
「この……っクソガキが! 来い!」
「離せっ! 嫌だ!」
右腕を掴まれたままずるずると引き摺られる。それに抵抗するために足を踏ん張るけど、大人と子どもじゃ力の差は明確で、じりじり引っ張られてしまう。火傷するんじゃないかと思える程に熱い涙の粒がぽろり、一粒頬を伝い落ちた。こんな奴の言うことなんか、ききたくない。こんな奴に簡単に負けてしまうこの貧弱な足が憎たらしい。自分で何でもできるなんて言って反抗したり、一人前を気取って誰かとセックスしてみたり、そんなことをしても俺はやっぱり子どもだった。
どうしたらいい。どうしたら。こんな奴の言いなりになんかなりたくない。
ぐちゃぐちゃの頭の中に浮かんだのは、あれほど嫌いだと思っていたマスタングの顔だった。制服のポケットに突っ込まれているケータイをなんとか取り出す。俺の体を引っ張ろうとする力に抵抗しながら、必死でメールの受信トレイを遡った。屋上でマスタングから受け取ったあのメールにあいつの電話番号も書いてあったはずだ。電話を掛けて、出てくれるとは限らない。あいつがここに来てくれる保証も無い。だけど今の俺がこの状況をなんとかしてくれるんじゃないかと期待できるのは、あいつ一人しかいなかった。
震える指をなんとか叱咤してメール本文のリンクから直接電話を掛ける。無機質な呼び出し音が鳴り始めた小さな携帯電話を、縋るように握り締めて耳元に押し当てた。出ろよ、出ろ。出てくれよ。お願いだからもうむやみに反抗したりしないから言うことちゃんときくからだから俺を連れていこうとするこの腕から助けてくれよ!
「……おい!? 何やってるんだ!」
「やだっ! やめろ!」
俺の動きに気づいた義父が携帯電話を取り上げようと左腕も掴んでくる。最後の頼みの綱を取られまいと、俺は痛いぐらいに耳に押し付けてこの小さな機械を守ろうとした。
「先生……っ!」
「その子を離してやってください」
この場に似合わない、厭味なほどに落ち着いた声が響いた。義父も俺も、動きを止めてその声が聞こえてきた方に目を向けた。
水分の膜で歪んだ視界の中、黒い髪が見えた。涙の粒がまた一つ、頬を伝っていった。
まさか、本当に来てくれるとは、思わなかった。
「先生……」
マスタングの右手が突っ込まれたコートのポケットの中から、初期設定のままの飾り気の無い着信音が小さく響いてくる。俺が電源ボタンを押して呼び出しをやめると、その音も聞こえなくなった。
「離してやってください」
「だ、誰だね君は」
義父がうろたえながらも俺の腕を掴む力を強くする。制服の布がぎり、と鳴った。
「エドワード君の担任のマスタングです」
マスタングは無表情のままこちらに近づいてくる。カツ……と足音を響かせて、義父の目の前に立った。
「失礼を承知で申しますが、今のあなたでは彼に何をするか分からない状態でしたので止めに入らせていただきました」
「な……っ、わ、私はこいつの保護者だぞ。だいたい、こんな所で金を貰ってるような奴を怒って何が悪い……」
「あなたがこの子を叱っても説得力は無いと思いますが」
このあたりで女子高生とうろうろしているあなたをよく見かけるのですがね。マスタングがそう言い詰めると、義父は目に見えて狼狽し始めた。腕を掴む力が緩んだ瞬間を見計らい、その手を振り払った。あっ、という義父の焦った声が聞こえたが知らない。そのままマスタングの後ろ側に入り込み、荒い息を落ち着けるためにホテルの煤けた壁に凭れかかった。
マスタングが庇うように、俺の体を腕でそっと背中に隠してくれたことにむせび泣きそうになる程に安堵した。
「あなたにもエドワード君にも、落ち着く時間が必要です。後でご連絡差し上げますから、エドワード君は少しの間私が預かってもよろしいですか」
マスタングはそう疑問形で義父に語りかけたが、それは相手の返答は求めていない威圧感を伴っていた。義父はもごもごと何か言おうとしていたが結局言葉は出てこずに、鼻息荒く踵を返してどこかへと歩き去っていった。
「……来なさい」
義父が人込みに消えていったのを確認して、マスタングは俺の手を取った。俯いて大人しくそれに従う。
いつもいつも、俺の前に現れては説教を垂れていくこの教師が嫌いだった。放っておいてくれたらいいと思っていた。でも、こうやって今この時に来てくれたことが嬉しかった。そして、自分の無力さを思い知った。
俺もマスタングも、一言も喋らないまま歩いていく。どこに連れていかれるんだろうか。辺りの店先を彩るクリスマスのイルミネーションが白々しく輝いていて、しょっぱい水分が乾ききっていない俺の目に突き刺さった。さっきまであんなに熱かった頬も指先も、もうすっかり冷えてしまっている。マスタングが掴んだ右手だけが、じんじんと熱を持っているようだった。そう言えば、手袋は結局見つからなかった。どこにしまったんだろう。忘れてしまった。
数分歩いたところでマスタングが歩を止めた。街灯で照らされた車道の脇に、何台も自動車が止められている。マスタングはその中からアイボリーブラックの乗用車に近づき、乗りなさい、と助手席側のドアを開けた。
え?
「……これに乗るのか……?」
「そうだよ。ほら」
「…………。やだ……」
ゆっくりと首を振る。ここから少しでも離れくてじりじりと後ずさるけど、右手が掴まれているせいでそれもすぐに止まってしまう。心臓の動悸が激しくなってくる。吐き気がせり上がってくる。嫌だ、こんな、俺は、見たくない、甲高い音、乱暴に打ちつけられる体、赤い色、冷たい手、断片的なそれらが頭の中を洪水のように巡っていく。嫌だ、やめてくれ。
「エルリック?」
マスタングが訝るように顔を覗き込んでくる。困ったような顔をしていた。
「乗り心地は良くないかもしれないが、我慢してくれ」
そうじゃない。そうじゃないんだ。背を押され、助手席のシートに手をついたところで俺の中で何かがぷつんと切れた。
「い、嫌だ! あ、っああああああああ!」
「エルリック!?」
がむしゃらに暴れてマスタングの手を振り払う。そのままその場にへたり込み、頭を抱えて半狂乱で言葉にならない叫び声を上げた。
何も聞こえない。何も見えない。聞きたくない。見たくない。
「エルリック!」
焦ったような声で、マスタングが俺の肩を揺すった。赤い色、どろりとした何か、痛む体、冷たい雨と手。頭の中であの甲高い耳障りな音が途切れることなく響いて、俺の呼吸を乱す。喉と横隔膜が歪な動きを繰り返す。
縋るようにマスタングの黒いコートに爪を立てたところで、俺はふっと、糸が切れるように意識を失くした。
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