レゾンデトル 8
雨が降っていた。視界が悪かった。前方から走ってきた対向車に気づくのが一瞬遅れた。ブレーキがかかった瞬間、俺の世界は変わってしまった。
甲高く響くブレーキ音、奇妙な浮遊感、それからドアに乱暴に打ちつけられる自分の体。頭を強く打って、落ちるように意識が飛んだ。
それからどれくらい経っていたのか知らないが、意識が戻って目を開いた時、やっぱり雨が降っていた。父さんと母さんとアルはどこにいるんだ? そう思ったところで、自分の体が何かに押し潰されて身動きが取れないことに気づいた。母さんだった。俺を庇うように腕を伸ばして、うつむけに倒れていた。
――母さん?
呼んでも答えてくれない。肩を揺すろうと手を上げたところで、自分の何かで濡れている手のひらが目に入った。赤かった。これは何?
母さんだけじゃなかった。父さんもアルも、皆俯いて動かない。どうしたの? どうして誰も答えてくれないの? どうしてみんな……
「うわああああああああっ!」
びくんっ、と自分の体が跳ね上がった。心臓が破裂してしまいそうな程に拍動している。浅く荒い呼吸がいやに耳につくと思ったら、それは自分が吐いている呼気の音だった。
額にも首筋にもべったりと脂汗をかいていた。手のひらも、じっとり濡れてしまっている。――濡れている?
喉が変な動きをさせて引き攣った。まさか? そんなはずはない。だって俺は、今は、でも、いや、確認しなければ。何かで濡れた手を握ると、ぬるりと指が滑る感触がする。震えて嫌がる腕を無理矢理持ち上げて、視界に入れる。落ち着け、これはきっと、ただの……
「エルリック?」
「ぎゃあああああ!」
不意に後ろから話しかけられて本気で心臓が口から転がり落ちそうになった。振り返るとマスタングが顔を顰めて耳に手を押し当てていた。
「君はどうしてそんなに声が大きいんだい……」
「お、お、驚かす方が悪いんだよっ!び、び、びっくりしただろうが!」
驚いて開いた手のひらには、べっとり汗が浮かんでいただけだった。そりゃそうだ、当たり前だ。今はもう、俺は高校生で、ここはあの雨の降る場所じゃないんだから。俺はこっそりと安堵の溜息を吐いた。
「……ん?」
そう言えば、ここはどこだ?
見下ろすと、腹から下に薄いブランケットが掛けられている。俺の体が沈んでいる柔らかいものはソファだった。
「ここは……?」
呼吸を落ち着けながら、辺りを見渡して自分のいる場所を確認する。
「私の家だよ」
マスタングがそう答えた。マスタングの家。初めて見た。
薄い色のフローリングの床、アイボリーのカーペット。ガラスの天板を乗せたローテーブル。ごみはきちんとごみ箱に捨てられていたけれど服なんかはあちこちに散らかりっぱなしで、それが妙に生活感を醸し出していた。
「君の家に連れて帰るのは嫌がると思って」
「……ふうん」
たまには気がきくらしい。そういや、この男の勘は良く当たるのだった。
マスタングは湯気の立っているマグカップを二つ、手に持っていた。ほら、と渡されたそれを覗き込むと、色の濃いココアがたぷんと揺れている。ココアの熱がマグカップを温めて、指にじんわりと熱が伝わってきた。ずず、と一口、飲んでみる。濃厚で熱いココアが喉を伝っていった。おいしかった。
「さて」
俺が身を起こして空いたソファのスペースに腰掛けて、マスタングはそう切り出した。俺は無意識の内に背筋を伸ばして、続いて掛けられる言葉を待った。
「……最初に、謝っておくよ。君があんなに嫌がるとは思ってなかった」
すまなかったね、とほんの少し困ったような笑顔で謝られた。あれ。てっきりもっと厳しい言葉が出てくるんじゃないかと思っていたから、ちょっと拍子抜けした。
「いや、そんな、謝られることじゃ……俺こそ、なんか……ご、ごめん」
照れ隠しに早口でそう言ってマグカップに口をつける。ず、とわざと大きな音を立ててココアを啜り、こっそり隣のマスタングの方を見ると、マスタングは何やら呆けたような顔をしてこちらを見ていた。
「……何」
「いや、」
マスタングは今度は気まずそうな変な表情になって、口を手で覆った。何だよ? 疑問に思って覗き込むと、ふい、と顔を逸らされた。それから目だけこちらにちろりと向けてくる。本当に何なんだ。
「君が素直に謝るとなんだか……気持ち悪いな」
「んだと!?」
さっきからなんか態度が変だと思ったら言うに事欠いてそれか!
ごめんごめん、と悪いと思っているのかいないのか分からない様子でマスタングは謝ってきたが、多分、絶対に、悪いと思ってない。笑いをこらえるように肩が震えているのがその証拠だ。
「本当に悪いと思ってんのかよ」
「思ってる、思ってる」
「嘘くせえ……」
横目で睨んでみても効果無し。それこそもう何度も思ったことだけど、いけ好かない野郎だ。
だけど、今なら分かる。これはこの男なりの優しさだ。こうやって茶化して、俺に噛み付かせて、それで俺の気を楽にしてくれようとしてるんだって、もう分かってしまった。
昨日まで、いや、今日の夕方までの俺なら、そんな優しさに気がついたって「そんなの要らねえ」と一蹴してしまっていたんだろう。いつだってそうだ。大切なものは無くなってから気づく。義父に見つかって、連れていかれそうになって、そうして初めてマスタングに縋ろうとする自分に気づいた。いつでも傍にあるものだと信じて疑わなかったからこそ、必要無いだなんて大法螺を、法螺だと知らずに吐いていたんだ。
じわり、と目の前の世界が歪む。目玉が酷く熱い。もう枯れてしまったと思っていた涙はまだまだ底をついていなかったらしい。ぽとり、とココアの水面を揺らして、涙が一粒落ちた。
「……ご、っごめん、なさい……っく、」
ぼたぼた、次から次へと涙はココアに向かってダイブしていく。雨みたいだった。俺の心の中の雨だ。
恐る恐る隣を見ると、マスタングは笑うのをやめて、びっくりしたような顔をしていた。水分越しにぼんやりとそれが映る。
マスタングはそっと俺のマグカップを取り、テーブルの上にそれを置いた。
「……それは、何に対してのごめんなさい?」
柔らかな声が降ってくる。怒らないから言ってごらん。そんなふうに聞こえた。
「っお、俺のこと心配してくれる、人のこと、を、気持ちも考えない、で、ずっとうざったいって思ってたこと……ずっと、自分はそんなの、ひ、必要無いって、思ってたこと……」
自分は強くなかった。いつだって本当は何かに守られてた。それはこいつに限らずに、周りの人みんなに。でもそれに気づかずにずっと粋がってた。
マスタングは俺の言葉に静かに耳を傾けて、そしてそっと腕を伸ばしてきた。自分を引き寄せる腕に抗うこと無く、体を預ける。背中を優しく撫でてくれる手。もう何年も忘れてしまっていた。抱き締めてくれる腕はこんなにあたたかい。
俺はずっと、このあたたかさを求めていたのかもしれない。柔らかく包んでくれるものを期待して、誰とも分からない奴らに抱かれていたのかもしれない。どんな奴に抱かれても、どんなに激しく抱かれても、気持ち良いけど虚しいとか、気持ち悪いとかそんなことしか感じなかったのはそれが優しさとか温かみとかそんなものを含んでいなかったからだ。だって現に今こうやって抱き締められてるだけで、もうずっと雨が降り続けていた自分の心がじんわりと満たされていく。
白いシャツに包まれた胸に額をすり寄せて、俺は口を開いた。
「……聞いてほしい話があるんだ」
震える唇を宥めるように、深く息を吐く。
「昔の話」
目の前のシャツを、皺になるんじゃないかってちょっと心配になるくらいに握り締める。一瞬さっきの夢が頭を掠めて呼吸が不格好に激しくなったけど、ゆっくりと背中を撫ぜる手に合わせるように深呼吸している内になんとか落ち着いていった。
「昔……俺が小さかった頃、家族みんなで、近くの丘にピクニックに行ったんだ」
煌めく山稜。むせ返るような濃い緑の匂い。高い空。
覚えている。あれは確か俺が7か8つの時だった。久しぶりに父さんが休みを取れたから、家族みんなで外へ出かけた。車の中で俺とアルは上機嫌で、歌なんかも歌っていたのかもしれない。ドアウィンドウから手や顔を出して風に当たろうとする俺達を、母さんは危ないでしょ、と何度も止めた。父さんは車を運転しながら、そんな俺達のやりとりを聞いて笑っていた。
着いた丘でシートを広げて、母さんの作ったサンドイッチを食べた。味はもうどんなだったか分からない。でもきっとおいしかったんだろう。そんな幸せな思い出だった。
「みんなで、サンドイッチ食べて、俺は弟と転げまわって、……楽しかった」
マスタングは何も言わずに俺の背を撫で続けている。手のひらの熱がほんのりと伝わってくるようだった。
「丘にいる間は晴れてたんだけど、帰りに、雨が降り出して……どんどん強くなっていった。視界が悪くて……それで、……それ、で、」
吐き出す息が震え始めている。シャツを握る自分の指が、力が入りすぎて白くなっていた。
「それで……前から来る対向車に気づくのが遅れて、父さんはすぐにハンドルを切ったけど、気がついたら……、み、みんな動かなくなってて、そ、それで、俺は……っ!」
声が上擦って掠れた。あの雨の日の光景が頭の中で再生されそうになって、俺は思わず我を忘れて暴れ出しそうになった。意味も無い小さな悲鳴と、異常に速くなった吐息が断続的に喉から洩れる。マスタングはそれにすぐに気づいて、俺の強張った体を強く抱き締めてきた。
「俺は……っ」
「大丈夫だから、エルリック、大丈夫……」
ソファの上で、自分を抱き締める腕に必死で縋った。大丈夫、俺は、そう、話すと決めたんだ。知って欲しかった。この自分一人では抱えきれなかった不安を誰かに話したかった。
「……俺は一人になって、母方の親戚に引き取られたんだ。それがあいつとその家族で……でも、あいつが俺を引き取ったのはただ世間体を気にしてただけで、家の中ではずっと、俺がそこにいないみたいに、ずっと俺は寂しくて、でもそんなの言いたくなくて、どんどん言えなくなっていって、俺の方があいつらのことなんてどうでもいいんだって思い込もうとするようになって……」
誰にも話したことが無かった。全部自分の中で処理して自分はこんなことに負けないんだって思い込んでた。弱いからこそそれを認めたら折れてしまいそうで、自分は強いんだと、自分に思い込ませていた。だけどずっと、本当は不安だった。
「ず、ずっと、自分が生きてる意味なんて無いんじゃないかって、ふ、不安だった……っ! お、俺なんて、いない方がよかったんじゃないかって、誰も俺のことなんて好きじゃないんじゃないかって思って、ほんとは、本当はずっと、」
誰かに抱き締めてもらいたかった。俺が生きている意味を誰かに認めてもらいたかった。
そこでもう限界だった。大粒の涙がまた滲みだしてくる。俺の涙腺は一日に何度崩壊したらいいんだ。
小さな子どものようにわんわん泣いて、たまにティッシュを渡されて顔を拭って、でもまたどろどろになって格好悪いったらなかった。マスタングはずっと、何も言わずに背や頭を撫でてくれたり、さりげなくティッシュを渡してくれたり、そんなふうに甲斐甲斐しく俺の世話を焼いてくれた。
ようやっとそれもおさまってきて気分が落ち着いてくると、今度は今のこの状況がとてつもなく気恥ずかしくなってきた。何だこれ。今までずっと毛嫌いしてたはずの大人に抱きついて、慰められてる。この腕の温度には安心できるけど同時に恥ずかしくもあって、むずかるように体を離そうともそもそと動いた。マスタングはすぐそれに気づいて腕の力を緩めてくれた。
だけど代わりに俺の頬をそっと手で包んで、上を向かせてきた。あれ、ちょっと、こっちの方が恥ずかしいんですけど。俺はこの涙に塗れた顔を見られたくなくてきょろきょろと視線をさまよわせた。
「エルリック」
名を呼ばれて、それでもかたくなに視線を合わせない。マスタングはそんな俺に何を言うでもなく、ただこちらをじっと見つめてくる。しばらくの間そうやって、観念した俺は渋々といった感じでマスタングと目を合わせた。
「君を好きな人がいるってことは、生きてる意味にならない?」
「え……」
それって、どういうこと。
答えを求めるように、俺を見つめる教師の目の色を探った。
「……君が好きだよ」
黒い瞳が、真っ直ぐに俺を射抜く。俺は何を言われたのか、理解できなくて呆けたようにそれを見つめ返した。好きって、誰が?
「だ……誰が?」
「……私が」
マスタングは真剣な表情でそう言った。誰が。目の前の男が。俺を好き?
何がどうなってる?
「そ、それって、どういう……えっ、あ、何、え……」
大きな手で包まれた自分の頬が一気に熱を持ち始めたのが分かる。それはどんどんと体中のいろんな場所に伝播していって、耳や心臓や、マスタングに触れているところなんかがすごく熱くなってきた。
「……すごく真っ赤だな」
マスタングはそんな俺の様子を見て、しみじみと呟いた。そんなこと、言われなくても自分が一番分かってるんだよ!
「う、う、うるせえよ! だ、だってあんたが急にへ、変なこと言うから……っ」
上擦って掠れた声でなんとか言い募る。頭の中が混乱して完全にキャパオーバーだ。こんな状況、処理しきれないってどこかから悲鳴が上がってる。やっぱり俺の頭は、勉強はできてもこんな時には役に立たない、まったく使えないやつだ。うまいことは言えないくせに、俺の意思は置いてけぼりで体ばっかりカッカと熱くなってるのがその証拠だ。
「……本当はずっと、こんなこと言うつもり無かったんだけどな……」
はー、と長い溜息を吐いて、マスタングは俺の肩に頭を預けてきた。頬に添えられていたはずの手はずるずると下に落ちていって、それからいくらか迷って結局俺の腰に回された。
ぎゃああ! 喉の奥でそんな情けない、声にならない叫び声を上げて、反射的に背筋をびくんとまっすぐ伸ばしてしまった。どうなってるんだ。まだおかしな夢を見てるのか? それともからかわれているのか?
ぎぎぎ、と錆びた機械のような動きをさせてようよう首を動かして、そうして俺は気づいてしまった。
肩に額を擦り寄せるマスタングの耳が、真っ赤だ。
「……あんた、耳がすごく……」
「言うな」
くぐもった声が即座に反応してきた。「赤い」と続けようとした口を噤んで黒い髪を見下ろす。もう一度深い溜息を吐いて、マスタングはのろのろと顔を上げた。少し困ったような顔で、目尻が耳と同じように赤く染まっていた。
「……別に具体的にどうこうしたいってわけじゃないんだ。ただ、君のことが好きで、君にちゃんと生きてほしいって思ってる人間がいるってことも忘れないでほしい」
「……」
「君の中に理由が無くても、私だけじゃなくいろんな人がいろんな形で君のことを好きだと思ってるよ、きっと」
じんわりと湯が沁み渡るように、その言葉が俺の中に沁み込んでいく。嬉しかった。俺は本当に、何もかも人にもらってばっかりだ。この言葉たちには嘘を吐いてはいけない。そんな気がした。精一杯の誠意で応えたいと思った。
「…………嬉しかった」
ぽつり。率直に思ったことを、素直に呟いた。意地っ張りは専売特許だけど、こんな時ばかりはそうも言ってられない。つまらないことで意地張って、大事なことを伝えられないなんて、そんなのは嫌だと思った。
「好きだって言ってくれて嬉しかった。俺の話を聞いて、抱き締めてくれて嬉しかった。お、俺は多分ずっと、……あんたがくれたような、言葉が、欲しかった……っ」
息が詰まってうまく言えないのがもどかしかった。マスタングは小さな子どものように一生懸命話す俺の言葉を、辛抱強く待ってくれた。
「嬉しかった、けど、でも……あ、あんたの気持ちに応えられるかどうかはま、まだ分かんなくて、」
「うん」
「だから……なあ、俺どうしたらいいんだろ……」
マスタングの顔を見れなくて、俯いてそう呟く。自分の気持ちが分からない。今までだって自分がどうしたいのかなんてはっきり分かったためしはあんまり無いんだけど、今の気持ちは混乱してぐちゃぐちゃで、整理のついてない状態だから余計に分からなかった。
教えてほしい。あんたは俺の先生だろ。
「さっきも言ったけど、気持ちを押しつけたいわけじゃないんだ」
「……うん」
「でも、今はこうやって抱き締めさせてくれると嬉しいかな」
伺いを立てるように、腰に回った手にほんの少しだけ力がこもる。俺は迷って、でも結局自分からもマスタングに腕を回して承諾の意を表してみた。すぐに、ぎゅっと強く抱きしめられた。
ものすごく恥ずかしい。顔から火が出るって、こんな感じか。だけど同時に充足感を感じてしまうんだからどうしようもない。
母さんが昔抱き締めてくれたように、あったかい腕が俺を引き寄せてそして全身にその体温を感じる。安心する。でも今はそれだけじゃなくて、自分でもよく分からないけど、すごくどきどきする。
「……君のことが好きだから、君が誰か知らない奴に抱かれているのがたまらなく嫌だった。もちろん、教師としてそれを正してやらなくちゃいけないっていうのもあったけど、でもできる限りあのあたりで君がいないか見て回ってたのはそういう気持ちがあって、君には気味悪がられるかなとは思ったけど……」
「……」
「今日もあのあたりをうろついていて、君から電話がかかってきて驚いた」
低い声が触れ合っている部分から伝わって、直接俺の体に響いてくるようだった。そうか。だからあんなにすぐに来てくれたのか。こんなところにも、俺のことを思ってくれる優しさが隠れていた。
「頼ってくれて、私の方こそ嬉しかった」
テーブルに置かれたココアはもう湯気が消えて、多分すっかり冷えてしまっているんだろうけど、ココアで体を温める必要なんか無いくらい、今は全身が熱い。ぽかぽかって言うか、気持ち良くて、茹だっているみたいに頭がぼうっとする。絶対に、どんなに遅くなっても俺の中でどんな答えが出ようとも、この人の気持ちには返事をしなくちゃいけないと思った。
「それから、君は今の家族のことが好きじゃないみたいだけど、それでも今まで君を育ててくれたことには変わりないから……そこについては感謝しなくちゃね」
あの男はどうしようもない人みたいだけど、とマスタングが溜息交じりに言った。
今の家族に感謝? 頭では分かるんだけど、でも気持ちがそれを拒む。
「今はわからなくても、ね」
そんな俺の頭の中なんてお見通しらしいマスタングは、そう付け加えた。
「……わかった」
渋々、呟く。いつか分かる日が来るんだろうか。今はまだ、分からない。
将来はどんなふうになっているのか分からないし、自分が何をしたいかもまだ決められない。だけどそんな未来を待つことが怖くないと知った。きっと未来でも、俺はちゃんと生きてる。
「でも……」
「ん?」
「でも、今日だけは……明日から頑張るから、今日は、帰りたくない」
あの家に帰る勇気が、覚悟がまだできていない。甘えなのかもしれないけど、でもちょっとくらい、あとちょっとだけ。
「……そうか」
じゃあこの家に泊まると良い、あんまり片付いてないけどね。マスタングはそう言って、ほんの少し照れ臭そうに笑った。その言葉にほっとして、小さな吐息を吐いた。
「一緒に寝るか?」
「ば、ば、馬鹿かっ! 寝ねえよ!」
突然のその言葉に気が動転した俺はひっくり返った声で叫んだ。何言ってんだお前本当にさっきまでなんか良い感じのこと言ってた教師の台詞かそれは!
残念、と肩を竦めて、マスタングは俺に触れていた腕を離した。布団の用意をしてくる、と向こうの部屋へと消えていった。
ほんとに、何言ってやがんだ、あいつは。自分を落ち着けるために、さっきからテーブルでぽつねんと放置されっぱなしだった可哀想なマグカップを持ち上げた。甘ったるい液体を口に流し込む。冷たかった。だけど不思議と、それを不快だとは思わなかった。
「……行ってきます」
とんとんとつま先を叩いて、履きなれた革靴を履く。
返事は無い。いつも通りだ。義父は早くから家を出て、義母は朝食に出した食器を洗っていて、義兄は部屋に閉じ籠もってる。相変わらず俺はこの家で、この家族の中で毎日暮らしてる。楽しいことなんて何も無いし、苛々することだっていっぱいある。相変わらずの、つまらない毎日だ。
だけど俺の世界は変わった。
俺は決して強くないし、一人で何でもできるわけじゃないけど、それでも俺のことを好きでいてくれる人達がいるってわかったから。たとえば、あのすかした教師とか。
今のところ、それが俺の生きてる理由。そんな感じで、今日も俺の世界は回ってる。
End.
→戻る