ジリリリリリリリ。
耳元で突如鳴り始めた爆音に夢の淵から覚醒して、ゆっくりと瞼を持ちあげる。この家に来てからはほとんど毎日繰り返していることだ。もう慣れた。嫌々ながら布団から腕を出して、ぱたぱたと枕元を叩く。何度かそうしてようやく探し当てた時計の頭を押し込み、うるさい目覚まし音を黙らせた。
うう、寒い。布団から出たくない。この体温で温められた布団、これこそがこの世の楽園だとは思いませんか。俺はさあ、人間、もっと怠惰に生きていいと思うんだよね。こんな身近に楽園があるのに、それをみすみす手放すなんて、なんて勿体ない。バチが当たりますよ、そんなの。楽園を求めない人間なんていないでしょ。極楽浄土でも天国でもなんでも良いんだけどさ、そうでしょ。はるか昔から人々が渇望してやまないこのユートピア、そのありがたみを、布団に丸まっているだけで毎朝噛み締めることができるんだから、そんな時間をわざわざ自分から短くすることないと思う。
長々と御託を並べたけれど、つまるところ俺が何を言いたいのかと言うと、このクソ寒い中に布団から出て学校へ行くのが億劫だっていう、そういうことなんですけれども、ね。
レゾンデトル 5
数分ほどそうして布団の中でもそもそごろごろした後、ようやっと決心して俺はベッドから這い出た。寝巻のまま一階に下りると、既に朝食は用意され、あたたかな湯気がテーブルから立ち上っていた。今日の朝食は、シシャモ、根菜の煮物、そして玉葱の味噌汁。他の三つの椅子とは作りの違う自分の椅子を引き、テーブルについた。テーブルの上には三人分の食器が並べられている。義理の父親はいつも朝早く出ていくので、あいつの分はもう片付けられていた。俺と義母の分、そして、トレーに載せられた、この家の本当の子どもの分。
彼は今日も一日中、二階の自室に閉じこもるのだろう。彼が大学を中退して二年、俺には義父よりも義兄と顔を合わせることの方が珍しくなっていた。彼が部屋に籠もって何をしているのかは知らないけど、別段知りたいとも思わない。義母は彼の扱いにほとほと困っているようだが、俺には関係の無いことだ。どうでも良い。
トレーを二階に運んでいく義母を横目で見ながら、いただきます、と手を合わせ、箸を取る。焼きたてのシシャモを摘まみ、尻尾からかじった。うん、おいしい。
学生のサボタージュに使われる場所は、保健室か、屋上。これは概ねどこの学校でも同じだと思う。俺の通う学校も、例外ではない。
この高校では昼休憩と放課後に屋上が開放されることになっている。それ以外の時間は出入り禁止で、誰も忍び込めないように鍵が掛けられる、のだけれど。
「あー……さみいけどあったけえ……」
昼休憩が終わりほとんどの学生諸君が授業を受けている中、俺は日の当たる屋上のコンクリートの上で寝転がり、温い緑茶を啜っている。どうやって鍵破りなんかやったんだ、ですって?うんまあ、実に簡単なからくりなんだけど。
昼休憩と放課後の前に屋上のドアの鍵を開けるのは用務員のおっさんの仕事なのだが、そのおっさん、いつも鍵をドアのすぐ近くに隠してるんですよ。正確に言うと、屋上のドアの前にある踊り場隅に使わなくなった机が積み上げられていて、その中でも一番奥に押し込まれた哀れな机の中に、鍵が隠されているのだ。この秘密を知っている学生はこの学校の中でもどうやら俺一人のようで、昼休憩と放課後以外の時間にいつ来ても、俺以外の人影を見かけることは無い。俺も偶然鍵を見つけるまではまったく知らなかった。
俺が漏らした「寒いけどあったかい」ってのは、一見矛盾してるようで実はそうでもない。風のほとんど無い晴れの日、のんびり午睡に入りかけた太陽によって無機質なコンクリートの表面はほんのり温められ、べったりと背中を付けると布越しにその温度が伝わってくる。ついでに自販機であったかのボタンを押して購入したお茶で指先を温めれば、完璧。冬の空気は冷たくとも、こうしてあったかい状況を作ることはできるのですよ、奥さん。
それなら初めから暖房の効いた保健室にでも行っとけ、なんて言われそうだが、最近はあまりにもサボり学生の数が多いからか、「ちょっと具合が悪くて」ぐらいじゃ保健室の先生も納得しなくなっている。体温を計られるわけにもいかないし、手っ取り早く授業から逃げ出すには、この場所が最適だというわけなのだ。まあ、晴れの日限定なんだけど。
基本的に屋上は教師が見回りに来ることが無いので、こっそり隠れて煙草なんかを吸う輩もいる。俺は煙草の煙が苦手でたまらないので吸わないけれど、たまに端の方に吸殻が捨てられていたりする。誰かが見つけて教師にチクったりしたらどうするんだ、まったく。別に俺には関係無いと言えば無いのだが、そのせいで屋上に監視の教師が回ってくるようになっても困る。あと、煙が臭い。こういう風の無い日の昼休憩直後にここに来ると、煙草の匂いが微かに残っていて俺の鼻を不機嫌にさせる。まったく、気をつけなさいよね、マナーがなってないな。
ストローで緑茶を吸い上げながら、かちかちとケータイをいじる。新着メールが二件。一件はラッセルからで、「四時限目の授業、あとでノート写させて」という俺の頼みへの返事だった。もう一件はただのメルマガ。内容を見ることもなく、受信フォルダを閉じた。最近迷惑メール増えたし、そろそろアドレス変更でもするべきか。でもあれ、メアド変更したんで登録よろしくってメールをいちいち回すのが面倒臭いんだよな。
ケータイを握りしめてどうすべきか悩んでいた時、ふいに扉のノブが回る音がした。はっと振り返る。
金属の擦れ合う耳障りな音を立てながら開いた、その扉から顔を現したのは……
「……先生」
「やあ、こんなところにいたのかい」
探したよ、と大して探してもなさそうな涼しい声でそう宣ったのは、よりにもよって一番見つかりたくない相手、マスタングだった。
「どうやってここの鍵を開けたのかは知らないが、サボりは良くないな。ホークアイ先生が探してたぞ」
しまった、誰も入ってこれないようにこちら側から鍵をかけておくべきだった。そんな俺の後悔を知ってか知らずか、遠慮会釈無く近づいてくるマスタングは、俺の数メートル手前でぴたりと止まった。ふんふん、と空気の匂いを嗅いでいる。あ、やばい。
予想通り、マスタングはおやおやと若干の呆れ顔で俺を見下ろした。
「エルリック、煙草は……」
「俺じゃねえよ」
最後までは言わせずに、マスタングの言葉を遮る。煙草吸った奴、誰だよ、話をややこしくしやがって。
「それなら良いんだが」
肩を竦めて、マスタングは溜息交じりにそう零した。そのまま止めていた足の動きを再開させて、俺のすぐ近くまでやってきた。寝転がった体勢から上を仰げば、マスタングが胡散臭い笑みを浮かべて覗き込んでくる。露骨に顔を顰めてやると、教師は小さく苦笑して俺の隣に腰を下ろした。
「一緒にどうだ」
そう言いながら、右手に提げていたビニール袋を開いている。購買でもらえる白い袋だ。取り出されたるは――
「……お菓子?」
きのこの形をかたどったチョコレート菓子だった。
「たけのこの方が良かったか?」
箱を開けながらマスタングがそう訊いてきた。いや別に、そういうわけじゃないけど。どちらかと言うと、たけのこのしっとりした食感よりもきのこのさくさく具合の方が、好きだし。
いや、問題はそこじゃなくて。
「え、餌付けでもしようってんだろ、ハンバーガーといいプリンといい。そんな手にはひっかからねえぞ」
先日のラッセルの言葉が頭をよぎる。おまえ餌付けでもされてるんじゃないか、と。ふん、そんな計画、この俺様がひっかかったりするものか。
ところがマスタングはぱちぱち、と数回瞬きをすると、間抜けな声で「ああ、そんな手もあったな」と宣った。
「……っておい!自分で気付いてなかったのかよ!」
「いやあ、だってそんなつもり無かったし」
別に今回のもそういうつもりじゃないんだが、どうする?とマスタングが首を少し傾げた。つられてチョコレート菓子が箱の中でころころと転がる。ふうん、ま、餌付けじゃないってんなら、もらってやっても、いいかな。お菓子に罪は無いんだし。断じてこの菓子が好きだとか、すげえ食べたいとか、そんなことは、微塵も考えてないからな、言っとくけど。
「……もらってやる」
ぶすっとした顔でそう言った俺の何がおかしかったのか、マスタングは声を出して笑った。
「何なんだよ!笑うな!」
「ああ、すまんすまん。ふふ……もらってやる、ね」
「……そーだよ。もらって、や、る、んだよ!」
ばっ、と箱を奪い取り、一つ摘まんだきのこを頬張る。うん、久しぶりに食べたけど、やっぱりおいしい。俺が箱を自分の腹の上に置くと、マスタングもそこから一つ摘まみ、口に放った。
そのまま二人ともしばし無言で、がさがさと箱をあさる音とむしゃむしゃ菓子を咀嚼する音だけが、屋上に響いていた。
なんだか、な。なんだろうこの状況。
きのこは相変わらずおいしいし、寝転んだ背中もそこそこあったかくて気持ち良いんだけど、なんでだろう。なんだか落ち着かない。ちろりと隣の教師を見上げてみても、遠くを見ながらもぐもぐときのこを食べているだけだ。
(……何か、喋れよ)
気まずいったらない。
考えてみれば、今までマスタングに絡まれるときはいつもこいつが何かしら俺にちょっかいかけて、俺はそれに文句言ったりつっかかったり、そんな感じで、会話が一つも無いなんてこと無かった。俺から話すような話題なんて無いし(そもそも俺からこいつに話しかけるなんて、なんか癪だ)、俺は他にこの状況を打開する術を持っていなかったから、気まずい思いをしながらもこの沈黙の中で菓子を咀嚼するしかなかった。
「あ」
「ん?」
しばらくそんな時間を過ごして、新しいきのこを摘まもうと菓子の箱に手を伸ばしたとき、もう一つも残っていないことに気がついた。
「きのこ無くなった……」
それを聞いたマスタングが俺の腹から箱を取り軽く振ると、あにはからんや、袋の端の方にひっかかっていたらしい最後の一つがころりと出てきた。
「あげるよ」
「え、」
マスタングはにこりと微笑むと、仰向けの俺の唇にふに、ときのこを押し当ててきた。慌てて口を開けると、転がり込んできたきのこのチョコレート部分が舌に当たって溶けた。
「私はそろそろ戻らないとね。仕事放り出してきてしまったし」
「……おい」
どうやら俺に屋上にいることをしつこく詰問してこなかったのは、こいつ自身もサボってここにやってきたためのようだ。この給料泥棒め。
「この時間は担当の授業は無いから良いんだよ」
悪戯っぽく笑って、マスタングが立ち上がった。ビニール袋にきのこの空箱を放り込んで、ほこりの付いた服をぱたぱたとはたく。
「じゃあ」
そう言って扉へと歩いていく。またあの耳障りな金属音を響かせて扉は開かれ、階段を下りていく軽い音がぱたぱたと小さく聞こえてきた。やがてそのまま扉は閉まり、その鉄の板に阻まれて足音も聞こえなくなった。
「……」
嵐が過ぎ去った。ような感覚だった。
口の中でどろりと溶けているチョコレートを飲み込み、ふにゃふにゃになったクラッカーの部分も一噛みして喉の奥に流し込む。傍に置いてあった緑茶のパックは、もうすっかり冷えてしまって残りを飲む気にもなれなかった。
あいつは一体、何を考えてるんだろう。屋上まで俺を探してやってきたかと思えば叱るでもなく、それどころか持ってきた菓子を俺と一緒に食べてる始末だ。いつも俺のいるところを目ざとく見つけ出して、説教なんかを垂れてきて、たまに食べ物なんかをくれたりして。
(変な奴……)
ほんと、変な奴。
「…………ん?」
突然、ポケットに突っ込んでいたケータイが震え出した。二つ折りのそれをぱかっと開けると、『You’ve Got Mail!!』と液晶画面に表示されている。見たことの無いアドレスからだった。
またメルマガか?そう思ってメールを開封して、直後に俺は不用心に見知らぬアドレスからのメールを開いたことを盛大に後悔した。
『五時限目はサボらずに出席するように。 マスタング』
目の前に現れた文字列が信じられなくて、反射的にばちんっ、とケータイを閉じた。それからまた、恐る恐る確かめるように開く。深呼吸しつつもう一回見ても、液晶が映し出す文字は変わらない。再びばちんっ、と閉じた。な、なんで。
「なんであいつが俺のアドレス知ってんだよ……!」
誰が洩らしやがった!
いきり立って立ち上がったところで、再びケータイがその身を震わせた。まるで、そのメールが届いたことに怯えているように。
ゆっくりと開くと、先程も見た『You’ve Got Mail!!』。送信者もこれまた先程と同じアドレスだ。おっかなびっくり受信メールを開封すると、『トリンガムに教えてもらった。アドレスと番号はこれだから、登録しておくように』だと。メールの下部にはマスタングのものらしいアドレスと携帯番号が書かれていた。
な、何が、登録しておくように、だ!偉そうに!て言うか、ラッセルのやつ、何ほいほい人のアドレス教えてんだよ!
とりあえず、他人のメールアドレスをあのいけ好かないやろうに勝手に流出させた友人を殴るために、俺は鼻息荒く屋上を後にした。
→NEXT
→戻る